知っていることは

 
 高校の3年間を通してずっと担任してもらっていたマエダ先生の葬儀に出るため大阪まで行ってきた。
 
 5月30日に先生が亡くなったという第一報に触れたのは5月31日の朝のことだった。昼前には大阪在住の同級生に連絡がついて、当日31日午後7時から通夜、翌6月1日午前10時から告別式が行なわれることを知った。
 
 月末当日に経理マンが持ち場を離れるわけにもいかず、通夜への参列はハナから諦めていた。翌日の告別式も品川を朝6時に出る新幹線でギリギリ間に合うかどうか……。少し時間に余裕をもたせようと思って検索したら、飛行機とか、前夜に東京を出る深夜バスがヒットしやがる。
 
 
 
 午後4時頃になって同級生のカサギ君(神奈川県民)から電話がかかってきた。昼前に出したメールに対するレスポンスがなかったから「読んでねえのかな」と思っていたところだ。
 
 
 
「ちさとはどーすんねん? 行くんか?」
 
「通夜には行けっこねーだろ、今夜7時からなんだから」
 
「そんなんわかっとるわい、明日の告別式のことやん」
 
「朝10時から喜志って、30分前に会場入りしようと思ったら新幹線では間に合うのがない。あるとしたら深夜バスかな」
 
「行くんか?」
 
「決めかねてるとこ。でもな、明日の告別式が済んでしまったら、ヒトのカタチしてる先生には会えるチャンスはもうないんだよな」
 
「……決めた!」
 
「何を?」
 
「今のちさとの言葉を聞いて決めた。オレ、今日は5時で仕事切り上げて京都の実家に泊まる。そんで明日の告別式に出る」
 
「行くのか?」
 
「おお。ちゃんと先生の顔を見て挨拶したい。どうしても、もういっぺん先生に会いたいんや」
 
「そうか、オレもそう思う。やっぱり、もう一度先生に会いたい。会って、きちんと挨拶したい」
 
 
 
     *   *   *
 
 
 
 マエダ先生との出会いは強烈だった。
 
 最初は中学2年のとき。生徒のひとりを指名して黒板の前に立たせ、「スカンジナビア半島を書け」と命じたのだ。ざわつく教室。指名された生徒が何も書けずに突っ立っていると、マエダ先生は、
 
「地図は描けなくても、字は書けるだろう。なぜ字を書かない? お前は字を知らんのか?」と、黒板にデカデカと縦に「ス カ ン ジ ナ ビ ア……」と書き始めたのだ。カタカナで。
 
 
 
 マエダ先生からは、勉強の「コツ」みたいなものを教わった。それはじつに単純明快なものだった。
 
 
 
「試験というものは、訊かれたことに答えるものだ。知っていることは書きなさい」
 
「試験ができなかったということは、知らないか、忘れてしまったかのどちらかだ」
 
「知らないことは、たずねなさい。忘れたことは、もう一度おぼえなさい」
 
 
 
 自分の中に引き出しをたくさん持ちなさい。そこには、なるべく多くのものを入れておきなさい。そして、それらをいつでも引き出せるようにしておきなさい。引き出せるものが多ければ多いほど役に立ちます。引き出したものを自在に組み合わせられるようになりなさい。
 
 マエダ先生が教えてくれたことは、今でもこんなふうに私の中に生きている。
 
 
 
     *   *   *
 
 
 
 関東から告別式に参列した同級生は、カサギ君と私ともうひとり、オーエ君の3人だ。マエダ先生の長男で同級生でもあるタクミ君が、私ら3人の顔を見てビックリしていた。「東京から駆けつけてくれたのか」
 
「ばーか、恩師の葬式に駆けつけないワケねーだろ?」と、言ってやった。タクミ君の手のひらに力が入った。
 
 タクミ君に聞いたら、関西在住の同級生たちは昨夜の通夜に来ていたらしい。たくさんの人数が集まってくれたそうだ。訃報にふれたのが昨日。その日のうちに多くの同級生たちが集まったと聞いて、私も少しうれしく思った。
 
 
 
 高校を卒業してから30年が過ぎた。卒業したとき18歳だった少年たちは、今やアラフィフのオッサンたちになった。30年前のマエダ先生の年齢だ。
 
 マエダ先生は、生涯かわらず教育者でありつづけた。退職後も、自宅を開放して塾をひらき、小学生や中学生に勉強を教えていたという。その子たちの親にも、かつての教え子がいたそうだ。今年の5月、体調を崩されて入院したその前日まで、子どもたちのために教えつづけておられた。
 
 
 
 塾の子どもたちからの弔電が読まれた。
 
 
 
「マエダ先生、ぼくたちは約束します。知っていることは、書きます。知らないことは、たずねます」