こだわる人も、いるにはいる

 
 こんなことをふだんあんまり気にしていない人にとってこれはどっちでもいいような話。
 
 たとえば、「文章」にかんして何となく漠然と感じているようなことなどについて少々。
 
 携帯メールなどをはじめとして日常生活において文字で情報や気持ちをやりとりすることはもはや呼吸をするのと同じくらいに「あたりまえ」のことになっている。仕事でもプライベートでもそう。
 
 
 
 たとえば、仕事が終わって会社を出たときには、「今から帰る」という代わりに、
 
「会社でました」と妻にメールを送信する。すると、
 
「(親指を立てた絵文字)
 > 会社でました」←元のメールを引用
 
と返信がくる。
 
 
 
 途中、地下鉄から私鉄へ乗り換える際に、
 
「○○駅です。20:00発準急に乗ります」と妻にメールを送信すると、今度は、
 
「(親指を立てた絵文字)
 > ○○駅です。20:00発準急に乗ります」←元のメールを引用
 
と返信がくる。
 
 
 
 さらに、最寄り駅で電車を降りたときに、
 
「△△駅おりました」と妻にメールを送信すると、今度も、
 
「(親指を立てた絵文字)
 > △△駅おりました」←元のメールを引用
 
と返信がくる。
 
 
 
 このメールのやりとりを見れば、「会社を出た」こと、「○○駅に着いて私鉄に乗り換えた」こと、「最寄の△△駅で電車を降りた」という情報が正しく妻に伝わったとわかるだろう。ちなみに、(親指を立てた絵文字)が意味するところが「了解!」であることはすぐにおわかりだろう。
 
 
 
 ところが、「文章とは、書き手の意思を文字によって読み手に伝える手段である」という、あたりまえのことがあたりまえにできずにとんでもない落とし穴にはまることもある。
 
 それは、「書き手の意思を文章によって読み手に伝える際の関門」である。それはセンスを含めた当事者の能力に依存している。
 
 1.書き手が自分の意思を?正しく?文章に書く
 
 2.読み手がそれを?正しく?読んで理解する
 
 とくに重要なのが、1の「正しく書く」ことである。正しく書かれていないものを、正しくないまま正確に読んでも、書き手の意思は伝わらない。

 
 
 
 ここで、よく引き合いに出される例をあげてみよう。チョー有名なこれ。
 
 
 
「刑事は血まみれで逃走する犯人を追った」
 
 
 
 これでは、「血まみれになっているのが刑事なのか犯人なのかわからない」と言われちゃう。なので読点「、」を打ってみる。文章が劇的に変わるのがわかる。
 
 
 
A0: 「刑事は、血まみれで逃走する犯人を追った」
 
B0: 「刑事は血まみれで、逃走する犯人を追った」
 
 
 
 これで、どっちが血まみれなのかがわかるようになった。さらに文章をいじってみる。
 
 
 
A1: 「血まみれで逃走する犯人を刑事は追った」
 
B1: 「逃走する犯人を刑事は血まみれで追った」
 
 
 
 ここで、筆者好みのスタイルに書き換えてみる。
 
 
 
A2: 「刑事は追った。逃走する犯人は血まみれだった」
 
B2: 「犯人は逃走した。追う刑事は血まみれだった」
 
 
 
 さらに追い討ちをかける
 
 
 
A3: 「逃走する刑事は血まみれの犯人に追われていた」
 
B3: 「血まみれで逃走する刑事は犯人に追われていた」
 
 
 
 ん?
 
 
 
A4: 「血まみれで刑事を追った犯人が逃走した」
 
B4: 「犯人が逃走する刑事を追ったが血まみれ」
 
 
 
 こうなっちゃったら、もう、何がなんだかわからない。てゆーか、意味が通じなくなってしまう。意味が通じない文章には意味がない。
 
 以上のように、正確に書くことが大切だということが非常におわかりになっただろうか?
 
 
 
 ごめんなさい。このエントリーそのものが、ほんの冗談です。遊んでみただけです。もう、血まみれ。てゆーか火だるま。