過ぎ行く夏を見送りつつ、イッキに読んだ読書日記(5冊)だぜ!

 
 もっぱら本は買わずに帰る……じゃなかった、図書館で借りて読むことにしている。
 
 買ってしまうと、買ったことそれ自体に満足してしまい、買ってきた本をそこらに置きっ放しにしてしまう傾向があることを完全には否定しきれないというかなんと言うか、つまりは紙の束を保有するだけになっちゃうのを好ましく思わない。(←だれが?というツッコミは、どうかこらえてお控えください)
 
 読んだら読んだで今度は読み終えた本をそのまま保有することにもつながって、これもまた家の中の限られたスペースの都合上なにかとよろしくない。もとからそんなに広いわけでもないのに。
 
 本を買うと、読んでも読まなくても、その保管場所にスペースを割かなくてはならない。そのためには、もとからあった何かをどけて、どけた後のスペースを割り当てることになるのだが、そこにも問題がないワケでもないのだ。
 
 スペースを空けるときに、その都度1冊ずつどけたりするようなことはまずなくて、大抵の場合は、10冊分とか20冊分とかある程度まとまった分量の本を処分して、ある程度まとまったスペースを作ることになる。そうでしょ?
 
 そうしてわざわざもとにあった本をどけて創ったはずのスペースが即座に埋まるなんてことはまずなくて、時間の経過とともに1冊ずつ隙間を埋めていくように、新しく買ってきた本が収まっていく。すでに予約待ちの行列ができている場合をのぞいてそうだよね?
 
 そういうときは、予約待ちしていた本がイッキにドバーッと埋まってしまう。でも、それは既に部屋のどこかに平積みしていたりして自分でわかっていれば何ひとつ問題視するようなことではない。当然のこととして受け入れられる。
 
 問題は、自分の知らない予約が既に入っていたような場合だね。せっかく創った空きスペースに、誰かが勝手に進出してきて勝手に何かをドンドン詰め込んでいってしまったりする、ような。
 
 
 
 というわけで、本はもっぱら図書館で借りてきて読んでいる。のであるが、読みたい本がいま話題の新刊だったり人気の本だったりして、貸し出し中であることも多い。そんなときには図書館に貸し出し予約をすることにしている。オンラインで。
 
 貸し出しの予約登録をしておくと、混雑時のファミレスみたいに自分の予約が予約リストの何番目にいるのかがオンラインでリアルタイムに照会できる。何日かおきに照会すると、だんだん順番が進んでくるのがわかってじつに便利。
 
 自分の順番になると図書館から「貸し出し資料の準備ができました」という案内メールがくる。貸し出しの準備ができてから図書館で1週間ほどのあいだ取り置きしておいてくれる。取り置き期間内に受け取りこないと「棄権」とみなされ権利はつぎの順番の人に移ってしまうから、メールを受け取った週の週末くらいに図書館で受け取ってくればよい。
 
 読みたいと思いたったその都度、貸し出し予約を入れているのだが、予約待ち人数によって自分の順番が回ってくる時期が長くなったり短くなったりもする。予約待ち人数がゼロだったりすると翌日には案内メールが来てしまったりもするかと思えば、逆に、3ケタ待ちで半年や1年かかってしまうなんてことも当然のようにある。
 
 予約した時期がバラバラでも、貸し出し準備が整うタイミングが偶然そろってしまって、一度に何冊も引き取ってこなくてはならないことも当然ある。たとえばこの夏がそうだった。
 
 
 
 そんなわけで、この夏に予約していたのがイッキに届いたもんだから、イッキに読むことになっちゃった本について書いてみるよん。
 
 
 
『伏 贋作・里見八犬伝』(著: 桜庭一樹
http://www.amazon.co.jp/dp/416329760X
 
 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を実際に読んだことはないのだが、どんな話だったかぐらいはちょっぴり知っている。かつて、辻村ジュサブローさんの人形を前面に押し出した人形劇『新八犬伝』をNHKで放送していたのを見たことある人も多いはずだ。
 
 本作は、里見家のひとり娘伏姫と愛犬八房の子孫である「伏(ふせ)」と呼ばれる犬人間(というかニンゲンの姿をしたイヌ)が、江戸時代まで生き延びたものの「バケモノ」として人間に狩られるという、なんだか大薮晴彦の『人狼シリーズ』江戸時代版みたいな冒険活劇ファンタジー
 
 獲物(伏)と、獲物を追うハンター(人間)との間に繰り広げられるスピード感あふれるバトルにワクワクするのはもちろんなんだけど、バケモノとして狩られる伏にも人間と同じように仲間を気遣ったり、恋人を思う細やかな感情表現に心が温まったりもする。
 
 ひょっとして奇天烈にも思えるストーリー展開にも面白味はたっぷりあるのだけれど、私には人間たちや伏たちの持っている温かさや優しさに心惹かれるものを感じた。心が通じてるって、いいな。また、そういう心の動きを、ちょっと離れた位置から見つめる描写というか視線が気に入った。
 

 
 
 
 
 
地下鉄(メトロ)に乗って』(著: 浅田次郎
http://www.amazon.co.jp/dp/4062645971
 
 さいしょに謝っときます。ワタクシ、浅田次郎さんと赤川次郎さんのおふたりの区別がついてませんでした。ごめんなさい。てゆーか、「三毛猫ホームズ」や「三姉妹探偵」の赤川次郎さんしか知りませんでした。
 
 たしかに書店や図書館の書棚をよく見れば、おふたりは別の名前で著作はそれぞれ書棚の別の位置に並んでいる。けれども、第一印象が「三毛猫ホームズ」しか知らなかったし、かつ、そのシリーズに私がまったく関心をもっていなかったこともあって、そこらへんが読書の暗黒大陸だったのです。とはいいながら、「田村はまだか」や「夏目家順路」の朝倉かすみさんのことは知ってるじゃん?と、セルフでツッコんどきます。わはは。
 
 タイトルどおり、東京メトロ丸ノ内線や銀座線などを乗り継ぎながら東京都内をあっちへこっちへ終戦直後や東京オリンピック直前へと時代を遡ったり行ったり来たりする。出てくる場所は、だいたい判る都民です。むふ。
 
「泣ける」と評判の書みたいでしたが、読んでみると私の「泣きのツボ」には合わなかったようでした。だからといって、ダメとか、つまらないとかいうようなことは全然なくて、面白く読みました。
 
 親子だから、兄弟だから、夫婦だからと、相手のことをよく知っていると思っていても、じつはそうでもなくて、親子だからこそ、兄弟だからこそ、夫婦だからこそ遠慮して踏み込んでいかない、いや、いけない領域があって、それが解けないわだかまりになっていることもある。そういうのって、わかる?
 
 そういうのってのは、お互いに正面から向き合い腹を割ってとことん本音で話さないと見えてこないもののような気がするんだけど、それって親友と呼べる友だちとすることじゃね?って考えちゃうと、親子とか兄弟だとか夫婦だとかいったって、じっさいにはあんがい距離の遠い間柄だったりするかもしれないね、って思ったりしてしまう。
 
 家族という絆(と思い込んでいる、じつはゆるくて脆い繋がり)に安心して、相手を気遣ったり相手に近づいたりすることをサボってちゃダメなのさ。
 

 
 
 
 
 
『こっちへお入り』(著: 平安寿子
http://www.amazon.co.jp/dp/4396632940
 
 で、今度は、学生時代からの親友に「お願い、見にきて」と頼まれた出かけたお稽古事の発表会の打ち上げパーティーにうっかり付き合っちゃったことから、自分もその世界にどっぷりとハマっちゃったアラサーOLの物語。
 
 そのお稽古事とは「落語」。
 
 市民会館で開かれているカルチャースクールというか、そこで月に1度のペースで開かれている女性向けの素人落語教室に通うようになる。
 
「みんな最初はドシロートだったのよ」
 
 そこで出あった人たちに混じってのお稽古。話を覚え、所作を覚えていく過程で、師匠(アマチュアです)や教室仲間たちとの交流を通じて、落語を、人の心の機微を知る。なんつって。
 
 仕事でも恋でもなんでもかんでも、はじめはみんなドシロート。生まれながらの達人なんてのは、いやしないんだから、どうぞ安心してこっちへいらっしゃい。どうぞおやんなさいよって、みんなして寄ってたかって背中を押してくれるし手も引いてくれる。
 
 そんなみんなの暖かさがなんとも心地よい。ついつい深みにハマって、「つぎは○○を演りたい」なんてことを自分から言い出すようになる。その○○という演目も、だれを「お手本」とするか、演者によって演じ方に大きな違いがあったりするのも面白い。
 
 おかげで、古今亭志ん朝師匠と柳屋小三治師匠とを聞き比べてみたくなってしまったではないか。そればかりではない、立川流家元の立川談志師匠の噺も聞いてみたい。図書館所蔵のCDを漁ってみたくなった1冊です。
 

 
 
 
 
 
『身体のいいなり』(著: 内澤旬子
http://www.amazon.co.jp/dp/4022508191
 
 乳癌になって、左右の乳房を全摘出した著者の闘病記(と言っていいのか?)。
 
 そもそもこのひと、生まれつき病弱というか、常に病気とともにあったそうです。とにかく幼いころから健康であった記憶がない。シャキっとしていたためしなく、いつでもどんよりぼんやりかったるく、腰痛やアトピーにつきまとわれ生きてきた。
 
 それなのに、乳癌。容赦なく乳癌。もしかして死んじゃうかもしれない乳癌。
 乳房全摘出→乳房再建の手術をめぐっての戦いの日々を経て現在に至る……。
 
 そして、現在はチョー健康!←生まれて初めてなんだとか。
 
 考えてみれば、学校生活や就職・離職・フリーの文筆家へと歩んできたなかで、あれをやろうとかこれをやろうとか、あれはできないとかこれはできないとかいうそれらの行動を決めるさいの判断基準などは、健康状態、つまり身体にお伺いを立て、身体が許す範囲のことを選んでやってきた。
 
 身体なしでは何も始まらないというか、行動できないし生きてはゆけない。そう、人間の行動というのは、すべてが身体のいいなりなんじゃん!
 
 というわけで、病気して、損なって、はじめてわかる健康のありがたみ。あたりまえのように食事ができるのも、丈夫な顎や歯のおかげだし、食べたものをきちんと消化できる胃腸のおかげ。立ったり座ったり歩いたり走ったりできるのも、身体を支えてくれる足があるおかげ。恋人を抱き寄せる腕があるからハグもできる。
 
 そういうことなんだよ。
 

 
 
 
 
 
『きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)』(著: 宮藤官九郎
http://www.amazon.co.jp/dp/4778311930
 
 クドカンこと、宮藤官九郎、初の自伝的?小説、という自らの触れ込み。
 松尾スズキさんに、
 
「宮藤くん、キミも小説、書いてみたら?」と勧められたのがキッカケなんだって。クドカン自身の高校時代の思い出などを、フィクションを交えて書いたのだそうです。
 
 その高校ってのが、1年中素足に下駄履きがデフォルトなんだって。雨が降っていようが雪が降っていようがお構いなし。片道12キロを自転車通学していたクドカンも下駄履きで自転車漕いでたそうです。
 
 だから、「きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)」って、「下駄で」を強調しているわけだ。なるほどね。
 
 でもさ、クドカンって、たしか40歳になったかならないかぐらいの年齢でしょ? てことは、ほんの12〜3年くらい前に、下駄履きで通学している高校があったってこと? ほんまかいな?
 
 しかし、おとなしくてまったく目立たない存在だったクドカンが、高校2年の文化祭後夜祭でハジケてブレイク! なんかスカッとしたぜ。
 
「押忍! ま○こ!」
「ち○こビンビンぼっきんがむ宮殿!」
 

 
 
 
 ふう、3日がかりでようやく書き上げたぜ。なんか長い道のりでした。