冷たい雨の降る夜に
冷たい雨の降る夜に、だらだらとつづく長い坂道を登っていく者がいた。若い男だった。男は傘も持たずに全身ずぶ濡れのまま歩いていた。
服も靴も、下着もくつ下も、身につけているもの全てがタップリと水を含んで重みを増し、ベッタリと身体じゅうに巻きつけたように貼りついていた。
「…………」
男は無言で歩いていた。「寒い」とも、「冷たい」とも言わずに、ただ黙って歩きつづけていた。何か言ったって、それがもとで雨が降りやむわけでも、着ているものが乾くわけでも、寒さが和らぐわけでもないことを知っているから。
男はただただ歩いていた。立ち止まることなく歩きつづけていた。いったん足を止めてしまうと、それまで歩きつづけていたことで保っていられた体温が急激に下って身体がこわばり、歩けなくなってしまうことを知っているから。
「…………」
ずぶ濡れの姿で外を通り過ぎていく男の姿を、坂の途中の家の窓から覗き見ている人たちがいた。声をかけることも呼びとめることもせず、通り過ぎていくのを黙って見ているだけの人たち。
暖かい部屋にいて、窓から外の景色を眺めている人たちの目には、外を通り過ぎていく男の姿がどんなふうに映っていたのだろうか?
窓の景色を通り過ぎていく影や、風景の一部であるかのようにしか見えていなかったかもしれない。もしかすると、まったく目に入っていなかったもしれない。
一軒の家の扉が開いて、一杯のカップを手に持った初老の男が出てきた。彼はずぶ濡れの男に歩み寄り、横に並んで歩きながらカップを差し出して言った。
「歩きながらでいいから飲んでいきなさい」
差し出されたカップは、熱いコーヒーで満たされていた。
「私にも、こういう冷たい雨が降る中を歩いた経験がある」
「…………?」
「立ち止まると、たちまち身体が冷えて歩けなってしまう」
「…………!」
「このまま歩きつづけていれば、そのうち雨もやむだろう」
「そうですか?」
「だから、途中で止まらずに、頑張って歩きつづけなさい」
「ありがとうございます」
「ふふふ(笑)、お礼なんかしなくていいから、行きなさい」
「あの、このカップは……?」
「それはあなたに差し上げましょう、もって行ってください」
「え? お返ししなくてもいいんですか?」
「いいえ、それはあなたに受け継いでもらいたいのです」
「受け継ぐ?」
「そうです、将来、あなたが誰かに飲ませてあげなさい」
「はい、きっとそうします」
ずぶ濡れの男は、熱いコーヒーで満たされたカップを両手のひらで包み込むように持ち、そっと口づけて微笑んだ。